تسجيل الدخول「明日、午後二時。財団理事会室で始めます」
調書に残る。その言葉は冷たかった。けれど、白鳥家で消され続けたことを、初めて誰の目にも残る記録にしてくれる言葉でもあった。 机の上の私の左手には、指輪の跡だけが白く残っていた。 翌日、午後二時。 財団理事会室は、思っていたより明るかった。 壁一面の窓から、冬の薄い光が入っている。大きな楕円形のテーブル。並べられた水のボトル。名前の札。録音機。部屋の隅には記者ではなく、議事録担当の職員が座っていた。 公開、といっても劇場ではない。 けれど、白鳥家で開かれる家族会議より、ずっと逃げ場がなかった。 入口で足を止めると、案内係が席を示した。「白鳥澪様はこちらです」 札には、申立人とだけ書かれていた。 鷹宮副社長婚約者、ではない。 白鳥家長女、でもない。 申立人。 それだけで、膝の奥に入っていた力が少し戻った。 椅子に座る。左手を膝の上に置いた。指輪の跡は、朝より薄くな東都物産。東都商事の旧名。 港の倉庫の鍵についた古いタグと同じ文字。 私はファイルの中から、鍵の写真を出した。「この透かしと、同じものがあります」 瀬里奈の笑顔が止まった。「偶然でしょう」「封緘の赤も、東都商事の密約文書と同じ顔料です。こちらは相沢先生に鑑定依頼をお願いしています」 相沢が頷いた。「すでに予備鑑定の結果は出ています。少なくとも二十年前の紙ではありません」 莉々花の手が、テーブルの下で母親の袖を探した。 今度は瀬里奈の袖を掴んだ。 瀬里奈はその手を、見ないまま外した。 部屋の空気が、少し変わる。 久我山が速記担当へ目を向けた。「提出資料の真偽に疑義あり。入手経路について追加確認します」 瀬里奈の頬から、柔らかい色が引いた。 久我山は次に、証人席の札を見た。「鷹宮征臣さん。証人席へ」 征臣の靴音が、私の背後から近づいた。 征臣は、証人席に立っても姿勢を崩さなかった。 黒いスーツの肩線はまっすぐで、声も低い。いつもの鷹宮征臣だった。 けれど、私の席からは、彼の右手が袖口へ向かいかけ、途中で下りるのが見えた。 証言席のマイクが入る。事務局員が氏名と立場を確認し、回答はすべて調書に残ると告げた。 征臣は私を見ず、正面を向いたまま「承知しました」と答えた。その声に迷いはなかった。 久我山が書類を開く。「鷹宮氏。あなたが白鳥澪氏に接触した時期と目的について確認します」 部屋の端で、莉々花が顔を上げた。 瀬里奈も、清隆も、一瞬息を詰める。 ここで征臣が言いよどめば、白鳥家はそこにつけ込む。澪は鷹宮に利用されたのだと。鷹宮家の復讐に巻き込まれただけだと。 私も、それを知っている。 だから、膝の上の手が少し硬くなった。 征臣は私を見なかった。 見れば、私を使ってしまうと分かっているみたいに。「最初の目的は、白鳥家と東都商事の資金導線を確認することでした」 声が部
久我山が淡々と聞く。「署名と実印はご本人のものですか」 清隆の口が止まった。 瀬里奈がすぐに横から声を挟む。「当時は奥様がご病気で、混乱されていた時期ですから」「菜月様が亡くなられたのは、そのずっと後です」 相沢の声が入った。 瀬里奈の笑顔が、一瞬貼りつく。 莉々花が不安そうに袖を握った。誰の袖でもない。自分の袖だ。握る相手を間違えているように見えた。 久我山は契約書の写しへ視線を落とす。「この書類単体で親子関係を確定するものではありません。ただし、清隆氏が申立人を受益者として扱っていた証拠にはなります」 私は父の顔を見た。彼は契約書から目を上げなかった。 ファイルの角を親指で押さえる。 久我山がこちらを見た。「母の口座から、私の学費として毎年支出されています。承認欄は、父の秘書室です」 清隆の顔色が少し変わった。「家の経理が処理しただけだ」「白鳥家の経理ではありません。母個人の口座です」 声の端が、さっきより硬くなった。 声を上げそうになり、奥歯を噛んだ。 紙を一枚ずつ示す。 数字を読み上げる。 母が残した順番は崩さない。 瀬里奈がゆっくりとバッグを開けた。「でしたら、こちらもご確認ください」 出てきたのは、白い封筒だった。 封緘の赤が、どこかで見た色に似ていた。 瀬里奈は私を見ず、久我山へ微笑んだ。「澪さんの出生に関する、古い証明書です」 そのファイルの角に、東都商事の透かしが入っていた。 瀬里奈が差し出した証明書は、妙に白かった。 古い書類だと言うには、紙の繊維が均一すぎる。保存状態が良いというより、年を取っていない紙に見えた。 私は手を伸ばしかけて、止めた。 触らない方がいい。 そう思ったのは、恐怖ではなく、癖だった。紙の匂い、封緘の位置、折り目の浅さ。母の帳簿を読んできた手が、先に違和感を拾っていた。 久我山が手袋をつけた職員へ合図する
久我山の声で、部屋の空気が整った。「本日の聴聞は、白鳥澪氏からの申立てに基づき、白鳥家関連財産の管理、菜月氏の死亡前後の記録、ならびに提出された戸籍関連資料の真偽について確認します」 言葉は固い。 けれど、固い言葉ほど逃げ場がない。誰かの涙や怒鳴り声で曖昧にできない場所へ、ひとつずつ釘を打たれていく。 私は目の前のファイルを開いた。 最初のページには、母の告発状の写しがある。次のページには、投薬記録。さらにその後ろに、港の書記官から受け取った封筒の記録。 紙は順番に並んでいた。 私の心だけが、まだ順番通りではなかった。 久我山が清隆へ視線を向ける。「白鳥清隆氏。申立人との関係について確認します」 清隆は椅子に深く座ったまま、片手をテーブルに置いた。「確認するまでもない」「確認のためです」 久我山は少しも揺れない。 清隆の眉が動いた。「その娘は」 娘、という言い方なのに、そこには何も入っていなかった。 私はペンを持ち直した。 父の声が、部屋の真ん中へ落ちる。「私の子ではない」 音が消えた。 誰かが息を止めたのが分かる。莉々花の唇が開く。瀬里奈は顔を伏せ、ハンカチで口元だけを隠した。 分かっていた。 記事も、偽戸籍も、公開聴聞の場で彼が何をするかも、予想はしていた。 なのに、胸のどこかが一拍遅れて折れた。「子ではない」という言葉より、父が迷わず言い切ったことの方が胸に刺さった。ファイルを開く手が止まる。 紙の角が、爪の下に入った。 痛い。 その痛みで、呼吸が戻った。 私は顔を上げた。 久我山がこちらを見ている。続きを促さない。慰めもしない。ただ、聞き取る人の目で待っていた。 私はページを一枚めくった。「では、こちらを確認してください」 声は少し低かった。 でも、出た。 清隆の前に、古い契約書の写しを差し出す。 清隆は、私の反応を見ていた。
「明日、午後二時。財団理事会室で始めます」 調書に残る。その言葉は冷たかった。けれど、白鳥家で消され続けたことを、初めて誰の目にも残る記録にしてくれる言葉でもあった。 机の上の私の左手には、指輪の跡だけが白く残っていた。 翌日、午後二時。 財団理事会室は、思っていたより明るかった。 壁一面の窓から、冬の薄い光が入っている。大きな楕円形のテーブル。並べられた水のボトル。名前の札。録音機。部屋の隅には記者ではなく、議事録担当の職員が座っていた。 公開、といっても劇場ではない。 けれど、白鳥家で開かれる家族会議より、ずっと逃げ場がなかった。 入口で足を止めると、案内係が席を示した。「白鳥澪様はこちらです」 札には、申立人とだけ書かれていた。 鷹宮副社長婚約者、ではない。 白鳥家長女、でもない。 申立人。 それだけで、膝の奥に入っていた力が少し戻った。 椅子に座る。左手を膝の上に置いた。指輪の跡は、朝より薄くなっている。それが少し寂しくて、少し助かった。 征臣は斜め後ろの証人席に立ったまま、私の椅子には触れなかった。 ボトルへ伸びかけた征臣の手より先に、私は自分で取った。 蓋が一度滑る。 征臣の手が少し浮いたが、今度は止まった。「自分で開けます。……でも、ありがとう」「分かった」 返事が少し早くて、胸の底の固さがわずかにずれた。 その時、扉の外がざわついた。 白鳥清隆が入ってきた。 紺のスーツ。銀のネクタイ。いつものように、白鳥家当主の顔をしている。後ろには瀬里奈と莉々花が続いた。 莉々花は淡いピンクのワンピースを着ていた。泣いた後に見えるよう、目元だけを薄く赤くしている。視線が私の左手に落ち、すぐに征臣へ移った。 空の指を見たのだと思う。 清隆も同じ場所を見た。 唇の端が、かすかに上がる。「外したのですか」 その声は、父親のものではなかった。 家の持ち物を見て、
相沢が声を落とした。「持ち出したのは、白鳥清隆氏で間違いありませんか」 真理は頷いた。名前を口にすることはできないようだった。「そのあと、菜月様は」 真理の指が止まった。 録音機の赤いランプだけが、小さく光っている。「奥様は、それでも旦那様を信じようとしていました」 その言葉は、ほとんど息だった。 私は母の手紙に触れた。 翌朝、久我山麗子は約束の時間ちょうどに現れた。 グレーのスーツに、装飾のない黒いパンプス。秘書が案内するより先に部屋の位置を把握している歩き方だった。会議室へ入ると、征臣にも私にも頭を下げすぎない角度で会釈する。「公開聴聞の座長を務めます。久我山です」 声は硬い。 冷たいというより、感情を交えない人の声だった。 相沢が資料を渡す。久我山は椅子に座る前に、表紙の申立人欄を見た。 白鳥澪。 その名前の上に、保留印はない。 久我山は顔を上げた。「申立人ご本人の意思で提出されたものとして扱います。よろしいですね」 征臣ではなく、私を見る。 私は頷いた。「お願いします。……鷹宮家の名前で出したくありません」「つまり、鷹宮家の関係者としてではなく?」「はい。白鳥澪として」 久我山の目は、少しも柔らかくならなかった。 けれど、紙の端に置かれた指が一度だけ止まった。「分かりました。では、調書に残します」 調書に残します。 その言葉は、怖いのに、かすかに救いにも聞こえた。 白鳥家で消されてきたものは、いつも紙に残らなかった。母の部屋が変えられたこと。指輪を取られかけたこと。私が嫌だと言ったこと。家族の誰も、何かの紙には残さなかった。 久我山は真理へ向き直る。「宮野真理さん。あなたの証言は、明日の場で確認します。今日ここで私情を聞くつもりはありません」 真理の肩がびくりと動いた。「……そのつもりです」「分
中から出てきたのは、薄い茶封筒だった。 角が何度も持たれたように柔らかくなっている。表には母の字で、私の名前が書かれていた。 白鳥澪へ。 胸の内側が、急に狭くなる。「菜月奥様から、お預かりしていました」「どうして今まで」 声が硬くなったのが、自分でも分かった。 真理の睫毛が落ちる。「怖かったからです」 言い訳ではなかった。 あまりにそのままの言葉で、返す言葉が遅れた。「旦那様も、瀬里奈様も、笑っておっしゃるんです。あなたのために、と。奥様のために、と。そう言われると、私はいつも、何も言えなくなりました」 白鳥家で聞き慣れた言葉が、別の人の口からこぼれる。 私は封筒を受け取った。 紙は軽かった。軽いのに、手が沈むような気がした。 真理は膝の上で両手を重ねた。「でも、もう黙りません」 その声は震えていた。 震えているのに、途切れなかった。「明日の公開聴聞で、私がお話しします。奥様が何を恐れていらしたのか。誰が書類を止めたのか。私が見たことだけを」 征臣の視線が一瞬だけこちらへ動いた。 私は封筒の表を見た。 母の字は、まだ私の名前をまっすぐ呼んでいた。 真理の証言確認は、夜になっても終わらなかった。 鷹宮邸の小さな会議室には、冷めた紅茶のカップが三つ並んでいる。誰も飲みきれなかった。カップの縁に薄く残った茶色の輪だけが、時間の長さを教えていた。 相沢が録音機を置く。「無理に思い出そうとしなくて構いません。見たこと、聞いたこと、残っていることだけで十分です」 真理は頷いた。 頷いたのに、唇はすぐには動かなかった。 私は封筒の中身を机に広げる。母の手紙。古いUSBの合言葉を書いたメモ。未提出の告発状の写し。投薬記録のコピー。どれも紙の色が少しずつ違う。 生きている間、母は一人でこんな紙を集めていた。 そのことを考えると、胸の奥が冷える。「奥様は、亡くなる一月ほど前から、薬の管理を変えるように







